このページは2009.4.7.更新しました。

池田房雄
(いけだ・ふさお・ノンフィクション作家)
1950年(昭和25年)2月15日、高知県高岡郡中土佐町に生まれる。
1970年4月、法政大学文学部英文学科に入学。
1976年3月、同大学学科を卒業。建設業界紙、政界紙へて、1980年秋にフリーライターに転向。
「週刊現代」「週刊ポスト」の長期連載担当取材記者をへて、86年から週刊誌や総合雑誌を中心に
ノンフィクションを執筆。テーマは薬害エイズ事件。 書評は月に一本程度書き、
「週刊読書人」のノンフィクション年末回顧文の執筆は、すでに10数年におよんでいる。
91年4月よりジャーナリスト専門学校専任講師。2009年4月同校退職。
趣味は古本収集と散歩。

池田房雄著作目録


 
荷風の坂
 偶然だった。
 十数年前、取材の帰り道に夏目坂を下った。この坂が夏目漱石と深い関わりをもつ坂であることを標識で知って以来、わたしは東京の坂に注意するようになった。
 わたしは東京で生まれたわけではない。住んだこともない。それまでのわたしにとって、東京は仕事や必要な目的を達成するために、急ぎ足で通り過ぎる都市にすぎなかった。しかし、夏目坂との出会いで、わたしの東京という都市への視点ががらっと変わり、ときどき深く立ち止まるようになった。
 東京は坂が多い――こんなことをいうと、東京にながく住んでいるひとにわらわれてしまうかも知れないが、わたしがそれを実感したのは最近である。それまでのわたしは、東京を平べったい都市と思い込んでいた。これはとんでもない錯覚だった。東京を自分の足でゆっくり歩いてみると、土地はけっこう起伏に富んでいて、坂は至る所に出現する。とりわけ、文京区と港区に多い。
 夏目漱石は坂の下で生まれ、坂の近くで成長した文学者である。永井荷風の人生も坂と深い契約を結んでいる。

 思い出の坂道けわし冬の空

 生誕の地を訪ねた荷風が『断腸亭日乗』に刻み込んだ俳句である(昭和16年10月25日)。明治12年、荷風は小石川区金富町45番地、現在の文京区春日2丁目で生まれている。そこは小石川台の西斜面に位置し、歩いて数分のところに金剛寺坂という坂があり、俳句はその坂を詠んだものだ。
 荷風の『断腸亭日乗』は、大正6年から死まで書き継がれた日記である。日記を調べると、荷風は42年間に4回も金剛寺坂を訪ねている。関東大震災後、二・二六事件後、太平洋戦争開戦の直前、最後は終戦から4年たった昭和24年秋である。時代の節目に足を運んでいて、気になる場所だったのだ。荷風はそのたびに変貌する景観を概嘆している。


 
凩の道源寺坂
 昨年の盛夏、麻布の偏奇館跡に立った。
 永井荷風が新宿区余丁町から麻布に居を移したのは大正9年春、41歳の時だった。爾来、荷風は66歳の啓蟄に空襲で焼け出されるまでの四半世紀、偏奇館に起居した。日記の6割弱が書かれた場所だ。
 荷風の評伝などによると、偏奇館は港区麻布市兵衛町1丁目6番地に建っていたと記されている。しかし、この地番は昭和42年の住居表示の変更で消滅し、現在の住居表示は港区六本木1丁目6番地5号に変わっている。地番を地図で確認すると、現場は六本木のアークヒルズに近い。
 道に迷い、ひとに案内を乞いながら、偏奇館跡にたどり着いた。偏奇館跡とその周辺では、現在、大規模な再開発工事がすすんでいる。ほとんどの民家は立ち退き、土地の起伏が露呈していた。地形が強調された風景のなかで、ヴィラ・ヴィクトリアという五階建てのマンションだけがぽつんと取り残されたように建っていた。このマンションが建っている場所が、かつての偏奇館跡で、ここに再開発事務所も置かれている。
 広大な地形が裸になると、偏奇館が崖の上にあったことが手に取るようにわかる。崖は八メートル程度の落差を形成し、西に向かって鋭く切り立っている。わたしは崖の上にたたずんでいて、あることに気づいた。坂といい、崖といい、地形が生誕の地である金剛寺坂の景観にそっくりなのだ。
 周辺には20以上の坂がある。荷風がもっとも利用した坂は崖の上をぬいながら道源寺の脇に出る坂で、この坂は寺の名称に因んで道源寺坂と呼ばれている。

 凩や坂道いそぐ湯のかえり

 昭和20年1月12日付の『断腸亭日乗』に記載されている俳句だ。むかし、崖の下はスラム街だった。そこにあった銭湯に入浴後、荷風は凩が吹き降ろす道源寺坂を駆け上がり、崖づたいの岨道を急いだのだろう。偏奇館炎上の2カ月前のことである。


この原稿は1999年4、5月「図書新聞」に連載されたものです。



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